みぎきき

こどもがいる生活の忘備録

未来の切なさ

以前、妊娠12週で受けた出生前診断について書いた。

keikolop.hatenablog.com

これでわかる胎児の異常はほんの一部で、中期の診断を受ければさらに詳しくわかるとは言えそれでもすべてではなくて、結局は生まれてみないとわからないことがたくさんある。そしていざ無事に生まれてみたら、今度はすぐにはわからない病気や障がいがこわくなる。

 

赤ちゃんが生まれてから、ずっと近い未来の話をするのがこわかった。

せいぜい来月のことまで、その先のことを考えたり、予定を入れたりすることがこわかった。もしかしたら、その時まで無事に生きていられるかわからないといつもよぎるから。


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生まれてすぐの頃は、とにかく生かし続けることが最大任務でそれが自分の手に委ねられているこわさがあるけれど、赤ちゃんと一緒にいることに慣れてきたら、自分の力ではどうにもならないこの人の命を危ういものにする何かがぼんやりとこわかった。

 

できるだけ先のことを考えないようにしていたので、保活中も来年の4月にこの人が生きている前提で、物事を考え進めているのが薄っすら不安だった。

  

 

この前何気なくこうtweetした時も、少しこわさがあった。6年も先までこどもが元気に生きているかどうかを考えると不安になった。1年いっしょにいても、これが当たり前となかなか思えなくて、こんな楽しい毎日がある日ふとした瞬間にパタリと終わってしまうんじゃないかという思いが、常に頭の端っこにある。

 

近所の友だちとコーヒーを飲んで別れる時、夫が朝出かける時、海外で久しぶりに会う友達と食事して宿まで送ってもらった時、これが最後かもしれないと思うことがよくある。それならそれで、と思う自分がいる。これまで十分楽しく過ごせた、出会えただけで幸運なのにさらにたくさんのことを一緒に楽しめた、その思い出で十分と思う自分がいる。

 

これまで親しい人を亡くしても淋しさに打ちひしがれるということはあまりなくて、じゃあどんな気持ちかと言うと、何年も会ってない友人を思い出して、どこかで幸せにしてたらいいなと思うような気持ちに近い。どこか遠くの国で元気に暮らしているのと、二度と会えないのは自分にはちょっと似ているのだ。

 

それがこどもに関してとなると急にこわいとか不安と思うようになった。二度と会えないならそれはそれで仕方ない、今までみたいにそうは思えない。

 

毎朝保育園に送ったら、夜にまた会えますようにと願って、夜となりで眠っている姿を見れば、明日また元気に会えますようにと祈る。自分の目が届かない時も、腕の中にいる時も、病気や天災や人災からできるだけ遠くで生きていますように。

 

そして必ず会えるように自分も無事でいなきゃいけない。点滅している信号を急いで渡ることは、ラッシュ時のエスカレーターを駆け上がるのは、あまりにリスクが大きい。わたしは無事に生きて何度でもあの子に会う。膝に乗せて頭や首筋からの綿菓子みたいな甘い匂いを思いきり吸い込む。

 

1年経っても未だに自分が親になった実感ってあまりなくて、それほど日々は縷縷として続いて1mmくらいずつ自分もこどもがいる状況に慣れて来たんだろうけど、こどもの命のことを考えた時、一緒にいられる日々が穏やかに健やかに続いてほしいと願う時、胸がきゅうっとなって、世の親として生きている人たちはみんなこの切なさを抱えているのかと驚く。喫茶店やジムでおばちゃんたちが娘や息子の話を、孫の話をしていると、かつて赤ちゃんだった人たちがそこまで無事に育ったことが奇跡だなと思える。毎日目の前で奇跡を見てるんだなという気持ちになる。

 

なかなかこわくて遠くを見通せないけど、もう少しどっしりと構えて、当たり前に将来や未来を楽しみにしたいなと思ってる。